この度は愛する母校の同窓会「湖医会」より「湖医会賞」を賜ることになり、同門の向所君と同級生の辻川君よりご推薦いただき心からのお礼を申し上げたい。歴代受賞者のように「輝ける何か」というものは無いが、一病理医として行き当たりばったり、出たとこ勝負で、自分の能力・体力と相談しながら前向きにやってきたことを評価していただき感謝している。
たたき上げ鉄道員の家系に育った私にはいつの間にか鉄遺伝子が組み込まれていた。ガキの頃は少々お勉強ができると勘違いしていたので、将来は東大を卒業して、国鉄本社か運輸省に勤めることを夢見ていた。その後何故か、滋賀医科大学に進み、普通のお医者さんになるつもりであった。スキーと水泳が少しできると勘違いしていたので、スキー部と水泳部に入部し、しんどくて何度もやめようと思ったが、何とか持ちこたえた。記録らしきものは全く残っていないが、第1回琵琶湖横断遠泳大会で完泳でき、プールの建設にも参画できた。また、今でも雪上でポールをくぐることがある。
4学年の時たまたま手にした「病理医覚え書」(金子仁著、日本醫亊新報社)と、当時発刊されたばかりの「病理と臨床」(文光堂)という雑誌に洗脳され「病理医」を目指すことになり母校に残った。二十数年後に「病理と臨床」誌の編集委員になるとは夢にも思わなかった。大学を卒業した1986年当時、特に関西で病理といえば実験病理が主体で、私が学生時代に書物からイメージした病理医を育てる環境とは少し異なっていた。小学時代から鉄道がらみで社会科は好きであったが、理科の実験はどうしても好きになれず、ここは居場所ではないと感じつつも何とかしがみついてきた。
胃癌の大家で、最も長く仕えた恩師、服部隆則先生も私の思いをよく理解していただき、ヒトの胃癌に関し、日常診断に関連する研究内容で色々なチャンスを与えて下さるようになった。本学の卒業生としては初めてフンボルト財団の奨学生として渡独する機会にも恵まれた。ドイツの素晴らしい勉学・生活環境をひとりでも多くの滋賀医大生にも追体験してもらいたく、夏期自主研修としてマグデブルグ1名、バイロイト4名、デュッセルドルフ3名、ミュンヘン2名、ボーフム2名、ドレスデン1名、エアランゲン1名、計14名の滋賀医大生をドイツ各地の大学や病院に頼みこんで派遣した。当院にも滋賀医大生が実習に来てくれるようになった。水泳部の初代顧問教官である土井田幸郎先生からは卒業時に「学生が使う教科書に引用される仕事はホームラン」と言われていたが、その約束の一部を果たせた。また、日独の恩師のご指導により唱え続けてきた疾患概念を「胃癌取扱い規約」に掲載することができた。
1998年、近くの済生会滋賀県病院に初めての常勤病理医として勤務し、その後本学の検査部病理に移り、母校で念願の診断病理を思う存分やろうという思いに燃えた。診断病理といっても、伝統的に標本の切り出しは外科系の先生方が行われていた。消化管ぐらいは私の力で何とかしよう画策したが、どうにも力不足。消化管の診断病理で売り出し中であるのに、マクロ観察、切り出し、病理診断、画像との対比といった「普通の作業」があまりできない欲求不満が募った。琵琶湖沿いにログハウスを建てて病理プローベを見ながら暮らそうかと半分以上本気で思っていた矢先、病理学会の休憩所で無料コーヒーを飲んでいる最中、ある高名な先生に声をかけられた。「これがヘッドハンティングか?」と一瞬ドラマの主人公の気分になった。新たな居場所をみつけて、単身関ヶ原と箱根を超えることにした。ログハウスは下町の1Rマンションに化けてしまった。
ジャスト・ファイブになり、そろそろ着地点を見つけようとしていたところであるが、またもや離陸してしまったようだ。私は教授でも部長でもないヒラの医長であるが、病院の成り立ちと職務の性格上、消化管病理に関する様々な仕事が津波のように押し寄せてくる。相変わらず行き当たりばったり、出たとこ勝負であるが前向きにやっていきたい。恩師、竹岡成名誉教授、服部隆則副学長、岡部英俊教授をはじめとする本学の先生方、「湖医会」の先輩・後輩諸氏に改めて感謝の意を表したい。