このたびは名誉ある『湖医会賞』を頂戴し、大変光栄に存じます。私は滋賀医科大学を卒業後、すぐ母校を離れて臨床や研究に従事して来ましたが、このように母校を離れて仕事をしている者にまで目を向けて評価していただき大変感謝しております。また若鮎祭と共催で行われた受賞記念講演会では、馬場忠雄学長や島田司巳名誉教授のご臨席も賜り、同級生たちに見守られながら母校で講演させていただいたことは一生の記念になりました。今回の受賞理由の一つには、「一般病院に勤務し日々の臨床業務をこなしながら、patientorientedの臨床研究を行い世界的成果を挙げた」ことが指摘されています。そこで、これまで私が考え、行ってきたことをご紹介させていただき、まだまだ達成するにはおよびませんが、私がめざしている臨床医の姿を感じていただければ幸いと存じます。
私は、卒後すぐ東京医科歯科大学第二内科に入局しました。同科には滋賀医科大学の出身者はひとりもおらず、母校の名前を汚さないよう緊張して研修に臨んだのを覚えております。2年間の初期研修を受けた後、同科の消化器グループに所属しました。消化器を選んだ理由は臨床が好きだったからで、とくに患者さんが多いことに加え、内視鏡などの手技が沢山あったからでした。ですから入局以来、消化器内視鏡や腹腔鏡などの手技を修得することに精力を注ぎ、それは今でも変わっていません。しかし教室には、臨床はもちろん、それのみならず研究も旺盛に行うという、いわば「汝、器用貧乏になることなかれ」という雰囲気がみなぎっていました。したがって、私も自然と肝臓病学の研究に従事するようになりました。
私が滋賀医科大学を卒業した1988年当時は、まだC型肝炎ウイルスは発見されておらず、慢性肝炎や肝癌の原因の大半がまだ分かっていない時代でした。しかし、翌年の1989年にC型肝炎ウイルスが発見され、これまで非A非B肝炎といわれていたほとんどがC型肝炎であることが判明し、いろいろなことが分かってきました。このことはまだ研修医であった私にまで強いインパクトを与えたのであります。そして、B型重症肝炎の患者さんの診療を契機に、当時助手でいらした榎本信幸先生(現山梨大学第一内科教授)のお導きもあり、ウイルス肝炎の研究に傾倒するようになりました。その後、米国コネチカット州に留学する機会を与えられ、肝臓への遺伝子導入や肝炎に対する遺伝子治療の研究に没頭し、研究に対するものの考え方も学ばせていただきました。留学も2年半を過ぎた頃、入局以来お世話になっていた現武蔵野赤十字病院副院長の泉並木先生が、アメリカまでわざわざスカウトにいらっしゃり、そのお誘いを受け武蔵野赤十字病院で働くこととなりました。
帰国後、現在の病院に勤務する際に大切にしたことは、米国で培った「研究を臨床に役立てる」という精神です。すなわち、ひとりひとりの患者さんを大事に治療しながらその個別の結果をまとめ科学的に解析し研究する。そして、その結果を次の患者さんや日本あるいは世界の患者さんたちに役立てたいと考えました。患者さんの幸せを考えた場合、ベンチトップのinvitroで得られた基礎的知見を臨床現場に応用し橋渡しする研究が重要と考え、実際の患者さんの身体の中では何が起こっているかを突き止めて、病態解明や治療法を開発する努力をしてきました。一般病院でこのような研究をすのは困難もありますが、逆に沢山の患者さんが来られるといった特性を生かすなど、工夫をして研究をしてきました。幸い、ウイルス肝炎における基礎研究の進歩とう追い風もあり、泉先生をはじめ有能な当科の先生方とともに臨床研究を進め、病態解明や新しい治療法の開発に成果を挙げることができ、最近は日本国内のみならず世界で認められるようになりました。ともすれば、「研究」は狭い領域のみに入り込みがちですが、臨床医である以上、私の場合は臨床研究を通して肝臓病を深く掘り下げ、それを軸足にして患者さん全体を見つめるように心がけております。
現在のところ、当科は一般病院では珍しく学会や厚生労働省における重責を担うまでになり、気がつくとスタッフも増え、全国の大学や病院からの見学も絶えない状況となりました。このように私がめざしている臨床医の姿は、まさしく滋賀医科大学が建学以来培ってきた「確固たる倫理観を備え、科学的探究心を有する医療人をめざす」という精神であり、私の原点は滋賀医科大学で学んだことにあると思っております。私を育んでくれた母校に感謝しつつ、今回の受賞に恥じないように、さらに臨床・研究に励む気持ちを新たにしております。今後とも皆様のご指導とご鞭撻を賜れば幸いです。