滋賀医大を卒業してから25年経ちました。その間、私が母校に顔を出したのは、軽音楽部のOBとして昔馴染みのメンバーと学園祭でバンド演奏したことが2回、卒後10年と20年の同窓会で2回、非常勤講師として学生の講義が1回です。このように、どちらかというと、卒後の母校とのお付き合いは希薄でしたが、この度、「湖医会賞」を受賞させて頂くことになり恐縮しております。
ご推薦頂きました同期生の新井良八解剖学教授をはじめ、お世話になりました皆様に心からお礼を申し上げたいと思います。
私たち2期生は、卒後四半世紀で年齢は50歳くらいですから、生まれてから卒業までの時間と卒後の時間が丁度同じくらいということになります。なんとなく節目という感覚もあって、昔を振り返ることが少し増えたのですが、本当に多くの偶然の出会いに支えられていることを感じます。今回は、卒後の私のセレンディピティの幾つかをご紹介したいと思います。
卒業した82年に慶応大学の放射線科に入局したのですが、そこで指導して頂いたのが、十数年後に「患者よ、がんと闘うな」というベストセラーを上辞し「がん論争」を巻き起こすことになる「近藤誠先生」でした。そのころの放射線治療のイメージは、「末期癌の症状を緩和する敗戦処理投手」といったものが多かったと思います。しかし、近藤先生は、悪性リンパ腫や頭頸部癌、子宮頸癌などに完治を目指した放射線治療を実践していました。臨床医としての出発点で、完治を目指した治療に出会えたことは本当に幸運でした。
数年後、近藤先生は「乳房温存療法」に取り組み始めます。しかし、多くの外科医が「日本人に温存はむかない」と思っていた時代ですから、患者さんはほとんど来ません。温存療法の価値はわかっていても、実地の勉強は進みませんでした。そんな80年代の終わり、乳癌学会の前身、乳癌研究会を慶応の放射線科が主催し、ゲストとして乳房温存療法の世界的な権威、ハーバード大学放射線科のハリス教授を招聘しました。たまたま滞在中の世話係を任命された私は、食事の際にお願いして90年のボストン留学が決まりました。
ですから、ボストンでは乳癌の勉強が主目的でした。しかし、それだけではありません。留学前には何も知らなかった、脳転移に対する新しい治療法「radiosurgery」にも出会うことができたのです。脳転移がみごとに消失するのを見て、早期癌の原発巣の治療にも使いたいなと考えるようになったのが、ピンポイント照射の始まりです。
帰国後も、偶然が重なって、放射線治療医が一人もいない防衛医大に講師として赴任することになり、赴任してみたらそこには大変に優秀な技師さんがいました。「自分ひとりで決断ができてサポートしてくれる人は優秀」という環境が、まさか防衛庁の機関にあるなんて、これも予想していませんでした。
このような偶然の重なりなしに、ピンポイント照射は確立できなかったと思います。現在も、脳外科医である「厚地政幸先生」との出会いから、縁もゆかりもない鹿児島に自分の施設を立ち上げて頂き仕事をしています。
そして、振り返ると、それもこれも31年前、国立大学の医学部で唯一、文系科目の比重が軽い入試をしてくれた滋賀医大との出会いから始まったのだなあと、つくづく感じております。本当にありがとうございました。最後に「この選択が自分の人生の中で納得できるか」。状況は日々変わりますが、今この時に日本を出てどこかの国で働く自分を前向きに認められなければ国際協力は大変苦しい経験になるだけでしょうし、逆に自分で熟慮した上での選択であれば、語学や厳しい生活環境等の問題は乗り越えられると思っています。