第5回『湖医会賞』をいただくことになり、大変光栄に存じます。学生時代よりお世話になりました滋賀医大の諸先生方、同窓会の皆様、そして、ご推薦くださいました中島滋美先生に心より御礼申し上げます。このたび、授与式と講演で12年ぶりに母校を訪れる好機も頂き、懐かしい気持ちでいっぱいです。
今回の受賞理由として書かれていた項目のなかに、『仕事や研究の環境などというものは、必ずしも好条件とは限らないであろう。しかしチャンスと努力という点で、とくに後輩への好例になる』とありましたのを受けて、参考になるかどうかは分かりませんが、私なりに経験から学んだことを書いてみたいと思います。社会に出れば好条件ではないことというのは枚挙に暇がないと思いますが、悪条件と思えることも捉え方次第でチャンスに変わりうるというのが私の印象です。私は子どもの頃にアトピー性皮膚炎に悩んだのがきっかけで、滋賀医大にご縁が出来ました。今から思えば杞憂だったのですが、『もし、一生治らなかったらお嫁に行けないかも?』と子どもらしく悩みました。しかし、自分だけ運が悪いとは思いたくなくて、『何か意味があるはず、病気を研究して、良い治療法を見つけられたらいいな』という漠然とした思いから始まり、研究に興味が湧いてきたのですが、これは当時の自分にとっては、とっておきの思いつきでした。近医で、滋賀医大の上原正己(名誉)教授がアトピー性皮膚炎をご専門にされていることを伺い、同じ関西ということもあって滋賀医大を受験しました。そう思って入ったわりには、普通にサボることも覚えて学生生活をエンジョイしました。新入生の時も『 研究医 ノなりたいんですが』と先輩に相談すると『そんな 研究医 なんていう職はないよ。臨床医だって、基礎の医者だって研究するんだから。』と教えて頂くなど、卒業するまでに、多くの先生方が親切に進路相談にものってくださいました。
卒後の紆余曲折を簡単に振り返ってみますと、基礎の研究室で免疫学の研究をして学位を取ることを想定し、京大皮膚科に入局。いざ大学院生として研究を開始するときには、皮膚の色素細胞の発生の研究をすることになり、分子遺伝学教室(西川伸一教授)に入門。研究に対して素人であったため、一年近くテーマが定まらず悪戦苦闘。なんとか学位研究を終えると、再生への興味が沸々と湧いてきて大学院の残りの半年ほどで幹細胞探しに熱中。4月以降も大学の病棟に戻るのを特別に1ヶ月延長して頂いて研究を継続、念願の色素幹細胞を発見。病棟勤務が始まり土日を中心に寸暇を見つけて研究しながら論文執筆。間もなく夫がボストンに留学決定。皮膚科の教授のご高配で私も留学することになり、同じボストンで色素細胞の研究ができるラボを見つけて留学。留学直前にNatureに投稿した幹細胞同定の論文のリバイスは難航し、一年半にわたり留学先でも実験を継続、そして念願の受理。留学先のボスの賛同を得て色素幹細胞研究を発展させ、白髪のメカニズムを解明。夫とともに日本国内の同じ大学あるいは近いところで帰国先を見つけようとするが難航。結局、別々の大学へ帰国。帰国先の北大で特任助教授の身分で臨床と研究の両立を試みるも、研究グループの結成をきっかけに研究に集中することに。しかし、皮膚科の臨床や病理も経験したお陰で新しくホクロやメラノーマのマウスモデルも出来て、今年の春より金沢大学がん研究所教授に就任。
振り返ってみれば、紆余曲折の繰り返しで右へ左へと転がりながらも、不思議なもので結局のところ、枝葉末節は相殺され、思い描いていた 研究医 なるものに近づいていけたと思っています。卒後に遭遇する環境の中で、不都合と感じること、悪条件と感じることに遭遇した時こそ、何かを変えたり、決心や覚悟をするチャンスでもありました。方向性を確認し、前向きに熱中して一つ一つ形にしていくと、新しいチャンスが生まれてくるので、結局は悪条件が踏み台となりうることを学びました。そして、こうしてやってこれたのは、何よりも、家族や恩師をはじめとする周囲の暖かいポートのお陰であり、滋賀医大でお世話になった先生方、諸先輩方のお陰でもあります。研究者として、まだまだこれからですが、湖医会賞を頂いたことを励みに、生命や疾患の本質に迫る研究、そして、後進の育成に邁進していきたいと思います。新研修制度が導入された影響で、どこの大学も大変な時期でもありますが、 滋賀医大らしさ に惹かれて人が集まるような魅力的な大学であり続けてほしいと願っています。