岩本 『臨床・福祉領域、その他の領域』

  「月の都」ビエンチャンから~滋賀医大の皆さんへ~

    岩本あづさ

    (医13期生、 国立国際医療センター国際医療協力局
            現JICAラオス国 子どものための保健サービス強化プロジェクト
            チーフアドバイザー)



雨季でスコールが続くラオスの首都ビエンチャンで受賞を知り、とてもびっくりしました。私のようなアカデミックとは言いがたい人間がこんな賞をいただいていいのかなあと困惑の思いもあります。ただこういう機会をいただいたことで、日本ではまだまだ情報が少ない国際保健医療協力について、特に学生の皆さんにお伝えできるということは大変うれしいです。何故なら私自身が「将来は世界中の病気で苦しむ人達のために働きたい。でも何から始めればいいのか分からない」と考えていた学生の一人だったからです。推薦してくださった同級生の林寛子さんをはじめ同窓会関係者の方々に深くお礼申し上げます。

~滋賀医大時代をふりかえると~

私は10才まで栃木県日光市の山の中で育ちました。読書や人形遊びが好きな静かで夢見がちな女の子だったと自分では記憶しています。小学校3年生の時に出会った1冊の本(「ヒマラヤの孤児マヤ」という児童図書で、1961年から結核対策に打ち込み昨年亡くなった「ネパールの赤ひげ」岩村昇医師の妻史子さんが書かれた本)に深い感銘を受け「こんな世界があるんだ、私もお医者さんになって自分が必要とされる土地で病気に苦しむ人達のために働きたい」と考えるようになりました。山深い日光の風景がまだ見ぬヒマラヤへの憧憬と重なったのかもしれません。しかしその後父の転勤で転居を繰り返すうち「数学が苦手で手先も器用ではない自分が、責任の重い医師という職業を選んでいいのだろうか」と思い悩む思春期を送りました。滋賀医大からやっと合格通知を受け取った時のうれしさは今もはっきりと覚えています。 希望一杯で入学しその後ばりばり勉強、と書きたいのですが現実は大違いで、相変わらず適性に悩み続け盛りだくさんの知識の吸収に挫けそうな危なっかしい学生でした。唯一救いだったのは、医学部では何を学んでもそれは「人」に関わる要素を持っている という事実で、それは「自分は人間と接することが大好きなんだ」と気づき始めた自分 をわくわくさせてくれました。 実力はともかく「医療は自分の天職」「将来何科に進んでも、よく勉強して患者さんとよく話すいいお医者さんになりたい」と心から思っていました。医療問題研究会に入って膳所駅周辺のお年寄り家庭で入浴ボランティアをしたり、障害者の方達と竹生島に遠足に行ったりしたことも、現在までつながる貴重な「原体験」となりました。

~日本の医療と国際協力をつなぐもの~

卒業後小児科に進んだ私が国際保健に関わるようになった経緯は「湖都通信」51号に書いたので、ここでは日本での臨床経験と国際保健という仕事とのつながりについて記したいと思います。

日本のNICU(新生児集中治療室)で働いていた頃、私に求められた最大の役割はハイテク医療機器や高価や薬剤等あらゆる医療技術を駆使して小さな赤ちゃんを救命し元気に退院してもらうことでした。研修医としてスタートしてから初めの数年間はそのスキルを身につけることだけに懸命でしたが、次第にNICUの外の世界にもたくさんの課題があることに気づき始めました。出生直後に問題のある赤ちゃんが病院で過ごす期間はかなり「特別」で、その後家庭で成長して行く時間の方がずっと長くていろいろなことが起こるのです。小さな赤ちゃんを家に連れて帰った後、日常の悩みを抱えて外来に来るおかあさん達にたくさん出会いました。退院した赤ちゃん達は、現在の日本社会が抱える問題の只中で家庭生活を始めます。少子化、小児科医不足、子育て不安、母子分離、虐待。それらの対策として、日本のNICUや産科・小児科も近年、完全母子同室・母子同床や完全母乳育児、カンガルーケア、地域での子育て支援等、様々な試みを意識的に取り入れるようになりました。実はこれらはいずれも、特別な新しいことではなく、ラオスのような開発途上国ではごく当たり前に日常行われているものばかりです。「最先端と言われる医療がたどりつく最善のケアとは、こんなに基本的でシンプルなものだったのか、私達はいつの間にそれらを失ってしまったんだろう」と不思議に感じるようになりました。

国際協力に本格的に携わる以前は、「日本での小児科・小児保健業務」と「開発途上国での国際小児保健」とを完全に分けて考えていましたが、徐々にその2つが自分の中で切り離せないつながりを持ち始めたのです。世界のどこにいても、私という一人の人間が医療者として患者や住民の方達に向き合う姿勢に変わりはない、またともに取り組んで行く課題の本質にも大きな違いはない、と現在では思っています。そう考えるようになって、「国際協力」という仕事に対する気負いは少なくなりました。

~国際保健という世界 学生の皆さんへのメッセージ~

国際協力に関心があり保健医療の道を選んだという人は滋賀医大にもたくさんおられると思います。「国際保健」は非常に間口が広く、私が現在身をおくODA(OfficialDevelopment Assistance:政府開発援助)だけでなく、WHOやUNICEF等の国際機関、MSF(国境なき医師団)をはじめとするNGO等様々な進路がありますし、開発途上国への医療者としての関わり方も多種多様です。その中で私の限られた経験から大切だと感じることを3つ挙げてみたいと思います。

1つ目は「主体的であり関係性も大事にできること」です。私達は異文化の中に飛び込んだ外部者という立場で、国際保健のプロフェッショナルとしてその国の人達を支援して状況を改善するという責任を負っています。日本での常識がことごとく覆される環境の中で、「それでも自分はこの国の人達に何を伝えたいのか、どう変わってもらいたいのか、そうすることによって何を改善できるのか」という自問自答を繰り返す毎日です。言い換えれば「これだけは譲れない」という自分の信念と「この点は日本と同じでなくても受け入れられる」という柔軟な判断とのバランス感覚が非常に重要です。

2つ目は「保健医療職を越える広い視野」です。日本では多くの小児科医がそうであるように夜間休日問わず病棟にこもり外の世界に疎かった私ですが、現在は医療職以外の様々な分野の人達と一緒に働く機会が多く、それが国際協力の楽しさの1つだと思っています。医学部卒業という経歴が全く役に立たない場面もあるのですが、自分の中に保健医療者としての軸を持ちつつその国の保健状況を仲間とともに多様な視点からとらえていくという姿勢が大切だと感じています。

最後に「この選択が自分の人生の中で納得できるか」。状況は日々変わりますが、今この時に日本を出てどこかの国で働く自分を前向きに認められなければ国際協力は大変苦しい経験になるだけでしょうし、逆に自分で熟慮した上での選択であれば、語学や厳しい生活環境等の問題は乗り越えられると思っています。

ラオス語で「ビエン」は「街」、「チャン」は「月」を意味するそうです。私は2007年10月までここで小児保健業務に関わる予定です。また現在ラオスでは看護学科1期生の野々村享子さんが青年海外協力隊員として活躍中です。のんびり穏やかな森の国ラオスが、湖医会の皆さんにとって少し身近に感じられるようになったとしたら私達にとってそれもまたうれしいことです。あらためて「コープチャイ、ポップカンマイ(ラオス語でありがとう、またお会いしましょうの意味」。 

    【プロフィール】
1993年 3月
滋賀医大医学部医学科 卒業
1993年 5月
国立岡山病院小児医療センター小児科研修医(セミローテート)
1994年 9月
AMDA(アジア医師連絡協議会)メンバーとして、旧ユーゴスラビア医療救援チームに参加
1995年 4月
滋賀医科大学医学科大学院(福祉保健医学講座)入学
1996年 4月
同 中退
国立岡山病院小児医療センター小児科レジデント(新生児科担当)
1996年 4月
国立岡山病院小児医療センター小児科レジデント(新生児科担当)
1998年 4月
同 常勤医師となる
1998年10月
~1999年 2月
国立国際医療センターで開催された「第1回国際感染症等門家要請研修」受講
(国立岡山病院より出向)
2000年 5~7月
JICA短期専門家(新生児集中治療):インド国立カラワティサラン小児病院
2000年 8月
国立国際医療センター国際医療協力局派遣協力第二課に転勤以後、同局より以下に派遣される
JICA短期専門家(新生児医療):バングラデシュリプロダクティブヘルス人材育成
      プロジェクト(2000, 2001, 2002, 2003)
JICA短期専門家(新生児ケア):ホンジュラス第7保健地域リプロダクティブヘルス向上
      プロジェクト(2001, 2002,2004)
JICA短期専門家(AFP サーベイランス):中国予防接種強化プロジェクト(2002)
JICA 短期専門家(小児保健):ラオス子どもの健康サービス強化プロジェクト(2003)
2003年 7月
~2004年6月
厚生労働省大臣官房国際課に出向
2004年11月
現職(ラオス長期専門家(チーフアドバイザー))
現在に至る